ユゴーの『九十三年』を読了して、次にはちぶんはモンテーニュの『エセー』を読む挑戦を始めました。
が、しかし、、、難解すぎてついていけない!(笑)
▲『エセー』の著者ミシェル・ド・モンテーニュ
と思っておりましたら、さっそく蜂が出て来たので忘れないうちに記しておきましょう(笑)
それは「第14章 幸、不幸の味は大部分、われわれの考え方によること」の最後の部分です。
《快楽にも、苦痛にも見られるある女々しい、惰弱な考え方がある。その柔弱な考えに、とろかされ、流されると、われわれは蜂に刺されたくらいでも叫び声を上げずにいられない。すべては克己を知ることにある。(岩波文庫 原 二郎訳)》
突然こんなことを書いても、何のことやらさっぱり分かりませんね(笑)
この章のテーマは、人が苦痛に感じる“運命”というものは、それ自体が幸福や不幸を与えるものではなく、考え方によって幸不幸は決定されるべきだというような事が書かれています。
今回の蜂が出てくるこの部分は、モンテーニュがキケロの『トゥスクルム論議 二の二十二』を引用したものらしいですが、そんなことを言われてもさっぱり分かりません(笑)
“惰弱”で“柔弱”な考えというのは、私たちを苦痛から救うたくさんの所説や哲学があるというのに、目先の苦しみにとらわれてそれらを用いようとしないことを指しており、何か困難が生じるとみな“蜂に刺されたくらいで大騒ぎする”と言っているようです。
もっと欲望や邪念にうちかつ人類の叡智があることを知れ──と。
そうは言いますが、ミツバチでなくスズメバチに刺されたらそりゃ大変ですよ!(笑)
しかしモンテーニュは、その“死”に対してもそうであるべきだと、この章の前段で様々な例を挙げて述べるのです。
面白かったのは、
絞首台に連れて行かれる男が、「借金取りに会うから別の道を行ってくれ」と言ったり(笑)、
懺悔聴聞僧に「今日おまえは主と晩餐を共にするだろう」と言われた死刑執行人が、「私は断食中だからあなたが自分で行けばいい」と答えたり(爆笑)、
絞首台にのぼった男に女を連れてきて「この女と結婚すれば許してやる」と言うのですが、男は「その女は私の好みではない」と断った話など(大爆笑)、死を目前にした人たちの機知にとんだ話がつづられます。
それにしてもこのエッセイが書かれたのが西暦1580~1588年だと言いますから、日本では関ケ原の合戦が行われる少し前の戦国時代。
フランスでは既に現代に通じるこんな文章が書かれていたことに驚きます。
読み進める中で、また蜂に関する記述がありましたらご紹介しますね!