前回、ユゴーの『九十三年』に出てくる女王蜂を紹介してから、さすがにもうないだろうと思っていたら、いやはやどうして、最後の最後にまたまたミツバチが登場してきました。
よほどミチバチは、ものの例えに使いやすいとみえます(笑)
処刑されるはずのラントナック侯爵を逃がしてしまい、共和党が作った法律にのっとって、自らが処刑されることになった共和党の指導者ゴーヴァン。
断頭台に送られる前日の夜、彼は自分を育ててくれた牧師シムールダンと最後の会話をします。
そして皮肉にも、教師と教え子の革命の目指す理想社会は、真っ向から対立するのです。
シムールダンが「私は人間がユークリッドの手で作られるといいと思っている」と言えば、
ゴーヴァンは「人間がホメロスの手で作られるといいと思っている」と答えます。
ユークリッドというのは古代エジプトの数学者、ホメロスは古代ギリシャの詩人です。
ゴーヴァンは「自然よりも偉大な社会を作りたい」と言います。
そして彼の長ゼリフの中に、この作品で三度目のミツバチが登場します。
「それが目的です。でなかったら、この社会など、なにになりますか? よろしい、自然の中に残っておいでなさい。野蛮人でいらっしゃい。タヒチ島は楽園です。ただ、この中にいては人間は考えない、という楽園です。野蛮な楽園より知的な地獄のほうがずっとましではありませんか。いいえ、地獄も絶対にいやです。人間の社会であるぺきです。自然より偉大な社会であるべきです。そうです、もし自然になにもくわえないというんなら、なぜ自然からぬけだすのですか?さあ、ありのようにはたらくことに満足しておいでなさい。みつばちのようにみつを集めて満足していらっしゃい。女王ばちのように知的になるかわりに、はたらきばちのようにあいかわらず野蛮なままでいらっしゃい。しかし、自然になにものかをくわえるならば、必ず自然よりもずっと偉大なものになるでしょう。つけくわえるということは増加するということです。増加するということは大きくなるということです。社会とはつまり昇華された自然です。わたしが望むのは、みつばちの巣箱に欠けているすべてのもの、あり塚にはないすぺてのもの、つまり、記念碑や、芸術や、詩や、英雄や、天才などです。永遠の重荷を運ぶのは人間の法ではありません。もうたくさんです、たくさんです、たくさんです。賤民や、奴隷や、徒刑囚や、永劫の罰を受けた人間など、もうたくさんです! わたしが望むのは、人間の一つ一つの属性が文明の象徴となり、進歩のひながたになることです。わたしが望むのは、精神に対しては自由を、心に対しては平等を、魂に対しては友愛を、ということです。たくさんです! もう束縛はたくさんです! 人間が作られているのは、くさりを引きずるためではなくて、つばさをひろげるためなのです。もう爬虫類のように地面をはいずりまわる人間などたくさんです。わたしが望むのは、幼虫がちょうに変貌をとげることなのです。みみずが生きた花になりかわり、羽をひろげてとびたつことなのです。わたしが望むのは……」(ユゴー作・榊原晃三訳「九十三年」より)
ここだけ読んだ人には、なんのことやらさっぱり分からないですね(笑)
だいじょうぶ、はちぶんにもよくわかりません(笑)
ただ、ミツバチが自然の象徴のひとつとして引用されていることはわかります。
この作品の最後の場面で特に印象に残ったのは、法律というのは心を持たないということです。
いま「日本は法治国家だ!」と偉そうに、それが至上のようにも思われていますが、果たしてそうなのでしょうか?
本来法律は弱い人を守るためにつくられますが、成文化された時点で、その法が作られた過程や経緯が忘却された時、心を持たないただの文字になってしまいます。
それを悪用する人間のなんと多いことか!
国家ですら人命尊重を声高に言い、窃盗を罪に問いながら、権力は法のもとに死刑を行ない財産の差し押さえを平気でするのです。
ユゴーの別の作品「レ・ミゼラブル」においても、ジャンバルジャンを捕えようとするジャベール警部に対し「法の奴隷」と言っているのを思い出すにつけ、ユゴーの理想は“人間”というものからはなれません。
カッコイイですね!