ヴィクトル・ユゴーの『九十三年』を読み進めておりましたら、またまたミツバチに関する箇所を見つけました。
ミツバチといっても今度は女王蜂です。
共和派のゴーヴァンと王党派のラントナック侯爵──。
まずは女王蜂が出てくるその場面までのあらすじです。
前回紹介した記事「ビクトル=ユゴー『九十三年』に出て来るミツバチ」で登場した3人の幼い子どもたち。
彼らの囚われているラ・トゥーグ城が両者の激しい戦闘の末、炎に包まれます。
ようやく城にたどりついたミシェール(3人の母親)は、燃える城の中にいる自分の子ども達の姿をとらえ、泣き叫びます。
しかしどうすることもできません。
そのとき、共和派に追い詰められ、どうにか城から脱出したラントナック侯爵がミシェールと出会います。
彼は泣き叫ぶ母親の姿を見ると、咄嗟に炎の中へと取って返し、子どもたちを救出することに成功したのでした。
その一部始終を見ていたゴーヴァンは、自分が支持する共和制とはいったい何なのかと苦悶する場面です。
そこで女王蜂が比喩として登場してきます。
『革命は人間を邪道におちいらせることを目的としているのだろうか? 家族を崩壊させるため、人間性を窒息させるために、革命がおこなわれたのだろうか? とんでもないことだ。一七九三年の革命がおこったのは、こうした家族や人間性という崇高な現実を肯定するためであって、けっして否定するためではなかったのだ。監獄をひっくり返すことは人間性を解放することであり、封建制度を廃止することは、家族の基礎を作ることである。製作者は権威の出発点となるものであり、権威は製作者の中に含まれているものだから、父権をおいてほかの権威など、けっして存在しないのである。ここから部下を創造する女王ばちの正統性もでてきているのだ。つまり、女王ばちは母であるがゆえに、女王となっているのだ。同じ理由で、人間の王が存在するということは不条理なのであり、王は国民の父ではないがゆえに、国民の支配者ではないのである。こうして、王は除去されて、共和制が生まれてきたのである。(ユゴー作・榊原晃三訳「九十三年」より)』
▲鈴木養蜂場の女王蜂
つまり──
国王は、国の父となる権利などどこにもない。
ところがその王制を復活させようとしているラントナックが、死を覚悟で小さな3人の子どもの命と母親を救ったという現実を目の前で見せつけらたゴーヴァンは、何が正しくて何が悪いのか全くわからなくなります。
王党派のラントナックの中に崇高なる“人間”を見たのです。
思い悩んだあげく、このあとゴーヴァンは思いもよらない行動に出るのですが。。。。
ともあれ、女王バチはユゴーも認めるハチ社会の王になる権利があったというわけです。
なんだかわかったような、わからないような・・・(笑)
『九十三年』、ほんとに面白いです!
「王政とはそういうものか!」と思ったり、それに対して日本の天皇って何なのかを考えてみたり──、
人の社会って、ほんと複雑ですね。