渡辺 碧水
【アフガニスタンでの養蜂(一)から続く】
アフガニスタンでの養蜂に日本人が貢献したもう一つの話題を紹介する。
二〇二〇年一月五日、西日本新聞の社会面に「かつての『死の谷』で養蜂/中村哲さんの遺業がまた一つ形に」が載った。
記事は「故中村哲医師が中心となって灌漑(かんがい)事業に取り組んだアフガニスタン東部で、もともと砂漠だった農場の一角に養蜂所が開設され、蜂蜜作りが進んでいる」という内容だった。
かつての砂漠の「死の谷」が、蜜蜂の飛び交う「希望の谷」に変わったのである。
以降、同新聞の記事などから集めた情報を要約して紹介したい。
故中村哲氏とは、二〇一九年十二月四日、アフガニスタンで銃撃の凶弾に倒れた福岡市出身の医師のこと。享年七十三歳。
九州大学医学部を卒業後、福岡県の病院に勤めていたとき、アフガニスタンとパキスタンの国境にまたがる山の登山隊に参加したことが、両国に愛着を抱くきっかけになったとされる。
一九八四年、キリスト教団の派遣医として、パキスタン北西部ペルシャワ病院に赴任。一九九一年、アフガニスタンに診療所を開設。
二〇〇〇年、大干ばつで農地が砂漠化し、飢えと渇きに苦しむ住民を見て、灌漑事業を決意し、井戸掘りを始め、最終的には千六百か所を作った。だが、地下水の枯渇に直面して井戸掘りに限界を知り、用水路の建設に変更。
中村氏が総院長を務めていた現地の非政府組織(NGO)「PMS」(平和医療団)は、福岡市のNGO「ペシャワール会」が日本全国から集めた浄財などを基に、アフガニスタン東部で二〇〇三年から用水路の建造を始めた。
「ペシャワール会」の現地代表として、同国で長年、人道支援と復興に力を尽くしてきた中村氏が好んで使った言葉は「一隅を照らす」(今いる場所で希望の灯をともす)であり、貫いた意志は「誰もがそこへ行かぬから、我 々がゆく。誰もしないから、我 々がする」だった。
【アフガニスタンでの養蜂(三)へ続く】
(完)
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