金谷翔真
「あーうるさいな」そう残して、ぼくはリビングから自分の部屋へと向かった。そして力強くドアを閉めた。音は思った以上に大きく、乾いていた。
これは高校3年生のときの話。その日の夜、ぼくは母親とケンカをしてしまった。なんでケンカしたんだっけ。2年たった今ではもう思い出せないくらい、くだらない理由だった。明日は高校最後の文化祭なのに。生まれてはじめてステージに立って歌う日なのに。そんな最高な日が待っているのが嘘みたいに、今の気分は最低だった。側にいるからこそ、見えないものだってある。きっと母はぼくの気持ちを考えてくれないし、わかってもくれない。そう思っていた。家にいると、なんだか息が詰まった。
文化祭当日、気分がしずんでいたって、太陽は当たり前のように登ってくる。しかし、この日は普段と少し違った朝がきた。トーストの表面が、琥珀色に輝いていたのだ。その光の正体は、蜂蜜だった。ぼくはハッとした。「蜂蜜はのどにやさしい」というのを雑誌で見かけたことがある。母は今日のライブに向けて、無事成功するように想いを込めて、蜂蜜を塗ってくれたのだ。うれしさと自分への不甲斐なさが心のなかで、とけあった。側にいるから、見えないものがある。ぼくは母の気持ちを考えていなかったし、わかっていなかった。
トーストをかじりながら、ぼくは思った。蜂蜜には詰まっている。おいしさや、栄養やらが詰まっている。それに想いも詰まっている。声は聴こえてこないが、「ライブ頑張ってね」という応援をたしかに受け取った。
母に伝えなきゃいけないことがある。「ごめんね」とか「ありがとう」とか。しかし、言えなかった。急に態度を変えるのがなんだか恥ずかしかった。だから「蜂蜜おいしかった」としか言えなかった。母は笑っていた。すべて見透かしたかのように、笑っていた。
ライブ中、声はいつもより遠くまっすぐ届いた。その理由をぼくは、たしかに知っている。
(完)
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