渡辺 碧水
【師匠と尊敬された元養蜂家(一)から続く】
物語は、二〇一〇年三月に始まる。
城島常雄さんの娘 ・和子さんは結婚し、姓を多久島と名乗り、札幌市で暮らしていた。二〇〇七年、母の他界を機に故郷の佐賀県神埼市から父を呼び寄せ、同居していた。それから三年、知り合いもおらず、慣れない土地で暮らす老父を気遣う日 々だった。
そんなある日、多久島さんは地元の新聞で市民団体による「さっぱち」の始動を知った。城島さんは六十数年にわたり、佐賀で養蜂業を営んでいた。養蜂を知る多久島さんは、父が「ミツバチを見て元気になれば」と思い、早速、八十六歳の父の常雄さんを誘って養蜂現場を訪ねた。
地元の新聞とは北海道新聞で、「さっぱち」とは「サッポロ ・ミツバチ ・プロジェクト実行委員会」のこと。
ここで、この蜂蜜エッセイ集既掲載の拙稿「先達を訪ね養蜂を知る(三)」の内容と結びつく。
重複するので省略するが、北海道新聞、二〇一〇年三月二十一日、見出し「札幌都心/ミツバチ飼育/五月からビル屋上に巣箱…」の記事だった。(当事者には確かめてはいないが、状況判断からこの記事に間違いないと思われる)
佐賀新聞によると、親子が「訪ねると、ミツバチも養蜂道具もない状況だった」そうだ。
これを裏づける談話が残っている。現在、同会の流れを引き継ぐ団体「特定非営利活動法人サッポロ ・ミツバチ ・プロジェクト」で理事長を務める酒井秀治氏が、当時を語ったものである。語り種のように何度も同様な内容があちこちで話される。(以降のシリーズ全文も含め、引用は部分引用)
同実行委員会を発足させる運びとなったが、「養蜂については誰も知識がなく、始めは何もかも全く手探りの状態でした。札幌近郊の養蜂家にも相談しましたが、活動に賛同を得られるも忙しいと断られており、誰から養蜂に関するアドバイスを受けるかだけが決まらずにいたのです。そんな時、さっぱちが新聞記事で取り上げられ、転機が訪れました」。
【師匠と尊敬された元養蜂家(三)へ続く】
(完)
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