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ミツバチと共に90年――

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蜂蜜エッセイ応募作品

ひと匙のハチミツ

泣き虫太郎

 

 真っ白な繭のようなベッドに包まれた、わずかな吐息で眠る母がいる。この病室をどれほど訪れたことだろうか。末期癌は、その腹を膨らませ、はらわたをよじらせ、血ぐるみひきずり、母はそれに耐えながら眠ることが唯一の術と選んだのだろう。
 丁寧に真綿で母の眼元に黄色く溜まった目脂を拭くと、母の目がゆっくりと開いた。意識は白 々とほとび、天井を眺めながら漂っているらしく、こちらを景色を眺めに視線を向けた。
 「どうやね、気分は」。見え透いた言葉だがそれしかない。「ううーん」。それでも生きている証しにはなる。「ハチミツを食べるか、美味いぞ」。「ううーん」。合槌を打つでもなく、たしなめるでもなく、朽ちた木彫のような手がこちらの手を握りしめた。ひと匙のハチミツを口元に届けると、母の乾いて割れた唇がわずかに開いた。
 「ああ、春のかおりがするわな」。これだけ長い言葉が母から漏れるのは久しぶりだ。
 それだけハチミツの味が母の脳裏を刺激したのだろう。ハチミツは獲れた花によって味が違うという。ハチミツ瓶の裏の説明文に「レンゲ」とあった。
 ひと匙のハチミツは母の涎で大半がタオルに呑みこまれた。「春がにおうわ」。病室の窓は人息で白く曇っているのに、今の母にはハチミツによって春の季節なのだ。瞳の奥から流れた小さな滴が頬へと落ちた。「今度はどんな花のハチミツにしようか」。母はそれに答えぬまま深い眠りへと体を沈める。
 見舞い時間が過ぎ、さて帰ろうとする後ろの方から、かすかな声が追ってきた気がした。「またおいで、ハチミツ美味しかったわ」。一瞬、後ろ手にドアを閉じ母を見たが、眠る姿が冷たく雪明りのなかにあった。ひと匙のハチミツに、母は遠いどこかの記憶を蘇らせていたのだろうか。

 

(完)

 

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