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ミツバチと共に90年――

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蜂蜜エッセイ応募作品

スプーン一滴の願い

泣き虫太郎

 

 この病室にやってきて、日がな一日語りかける私に、合槌を打つでもなく、たしなめるでもなく、朽ちた木彫のように、身動きもせず眠り続ける母。
 ときどき、ゆっくりと目が開く。そのたびに私は同じ言葉を吐く。「何か食べたいものはないかい」。口元がなにか言いたげだか、言葉にならない。私は耳元を母に近づけ、それを翻訳するのに頭を悩ます。
 「ハチミツ」。そう言えば、縁側でオルガンを弾く若い母が、森に続く庭に向かって歌うのを思い出した。そのそばに、扁桃腺を腫らして寝込む幼い私がいた。お湯に溶かしたハチミツを母が口伝えに私の口に届けてくれた、母の匂いがする甘い味。
 私は病院の購買へと走った。咳込みながら、店員に尋ねた。「ハチミツありますか?」「置いていません」。その乾燥した声に、病院近くのコンビニへとまたもや走った。これが母への最後の孝行かもしれない。
 スプーンに乗せた一滴のハチミツを母の口元に届けたが、いつのまにか母の意識は白 々とほとび、もはやただよいはじめ、ときどき見開く目のいくえは知るすべもない。唇も舌も受け入れる力もないようだ。
 「母さん、あまい甘いハチミツだよ。蜜蜂が母さんのためにだけ獲ってきたんだ」。私の作り話に母が僅かに微笑んだように見えた。幾度も、私は母の口元にスプーンを押さえたが、ハチミツが母の首筋へと流れていく。
 そこにガラス窓から射す光が、きらきらと光るほどに、私の目もとから涙があふれた。
 今日の介護をあきらめて帰ろうとしたとき、かすかな声が迫ってきた。「ハチミツはおいしかったよ」。一瞬うしろにドアを閉じ、恥じる私の行く手に、若い母が嬉しいに私の頭をなでてくれた。それが幻覚だったのか。
 私は少年になっていた。

 

(完)

 

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