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蜂蜜エッセイ応募作品

蜂蜜、唇、愛おしい人

奥田さつき

 

 ある冬の夜、カウチで本を読む祖母に眠る前の挨拶をしにいくと、彼女は少し待っているようにと言って台所へ入った。左手をなんだか不自然なかたちにした彼女が戻ってきて、私の方へ薬指をのばす。その先が一瞬、濡れたように光るのが見えるか、見えないか。唇の上につめたさとねばりを感じる。私はきっと怪訝な顔をしていたのだろう。もう会えないひとはゆっくり笑って、——蜂蜜よ。これで朝起きたらおくちのかさかさ、治っているわ。そう言って、痩せた指の先をしゃぶった。翌朝、私の唇はしっとり、つやつやに。ならなかったのは無意識に唇を舐めてしまうよくない癖があったからだ。けれど、鼻をくすぐる甘い香りと、鏡を覗くとリップグロスをつけたみたいにぬらぬら光るのがたいそう気に入った。それからは眠る前に度 々せがんで、唇にたっぷりの蜂蜜を塗ってもらったものだ。
 香りは時として非常につよく、記憶と結びつく。かくも有名なフランスの長編小説の主人公にとって、紅茶に浸ったマドレーヌの香りがそうであるように、私にとって蜂蜜の香りは特別な意味を持つ。だから、たいてい黄色と茶色のパッケージでくまのイラストがついた、ハチミツ配合を謳うシャンプーやハンドクリームなどをつい手に取ってしまう。ささやかな宝物のような瞬間を、忘れないようにできる気がして。
 先日、恋人がプレゼントしてくれたのは外国製のちいさな容器に入ったリップオイルで、それはみためも香りもまるで本物の蜂蜜のようなのだ。夜、儀式のようにとろみのある液体を唇にすべらせると、あの記憶が鮮やかによみがえる。そして愛おしい人と、唇と、蜂蜜がふしぎに結びついた体験の甘い反復に酔いつつ、眠りにつく。でも、次の日の朝の唇は昔とは違う。大人になった私はもう、わるいくせを直したから。

 

(完)

 

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