渡辺 碧水
[「虻蜂とらず」の由来(四)から続く]
前回、金子武雄の著書から、この諺の原義についての引用「……虻や蜂を人間がとろうとしたものだとは考えられない」を示した。さらに部分的に省略して、本文を引用する。
……これは蜘蛛(くも)のことではなかろうかと思われる。蜘蛛が網を張っていた。そこへ蜂がかかった。蜘蛛はこれを捕らえようとして、糸を出して巻きつける。しかしまだ完全にその自由を奪ってはいない。またそこへ虻が網にかかった。(一部略)蜘蛛はひとまず蜂をそのままにして虻に向かって糸を巻きつける。しかしこれもまだ充分に自由を奪わないうちに、蜂が逃げ出しそうになった。あわてた蜘蛛が虻から離れて再び蜂に立ち向かおうとした時、すでに遅く蜂は糸から逃れて飛び去った。しまったと思った蜘蛛が虻だけは逃がすまいと思ってこれに向かって行った時、これもすでに遅く、虻ももがいて逃げ去ってしまった。
この部分の新海記述を引用する。
金子武雄氏は「人間が虻や蜂をわざわざ取ることは考えられない。これはクモが網にかかった虻を取ろうとしたところに、今度は蜂がかかり、蜂を取ろうと向かったすきに虻が逃げ、さらに蜂にも逃げられた状況を、だれかが見ていて言ったものである」と発表したのです。
二つの文章を並べてみて気づくのだが、蜘蛛の網に先にかかったのは、元の金子の著書では「蜂」なのに、引用の新海記述では「虻」になっている。新海記述が「ことわざ辞典」からの引用だからであろう。
私(渡辺)を含めて、ことわざ辞典なども、この諺を述べるとき、金子の蜘蛛説に基づきながら、網に先にかかったのは「虻」だとしている。私が調べた文献類で「蜂」が先にかかったとするのは金子の文献だけであった。
「虻蜂とらず」の語順が「虻、蜂」となっているので、先にかかったのは「虻」との思い込みがあるからか。前後の順は虻と蜂のどちらでもいいのかも知れない。
だが、虻と蜂では価値的に差異があり、より良い方を求めた(欲を出した)という解釈もあることは、既に「『虻蜂取らず』の意味(三)」で述べた。蜘蛛説において、欲深さの結果起こる失敗を説明しているとすれば、説得力は「蜂」を先に置く方が強い気がする。
基にあったのではないかと想像される逸話の存在と共に、今後の追究課題として、あえて指摘しておきたい。
[「虻蜂とらず」の由来(六)へ続く]
(完)
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