口縄坂りさ
焼きたての食パンに掛けた蜂蜜はチューブの中にある蜂蜜より柔らかいのだ、ということを私は祖父の寝室で覚えた。夏休みの朝だった。
「にゅうにゅうが台所にあるで盆さら持っといで」
舌足らずだった頃の私をからかって、祖父は牛乳を「にゅうにゅう」と言う。りさ、りさのクラスでいちばん音読が得意なのに、と私は憤慨しながら牛乳パックとコップを運ぶ。部屋に戻ったら抗議するつもりで文句を考えながら。
母が用意する朝食の前に頬張るハニートーストは、祖父と私の内緒の楽しみだ。
伯父や伯母のいる居間で話すときは幼いなりにも当たり障りのない内容を選んでいて、だから私が本当のお喋りをするのは祖父と2人きりで甘いトーストをかじっている間の特別だった。算数の式で左右を逆にしてバッテン印を付けられたのが不服なこと、背が高いと整列で男子の列に移されて友達と喋れないこと、大縄の練習で引っかかったのは自分じゃないと嘘をついたこと、縦割り班の四年生に可愛い女の子がいて大好きなこと、静岡へ来る前に終わらせる約束だったドリルが実は残っていること。明るい真夏の朝は既に暑さの気配に満ちていて、ガラスのコップに何度も手を伸ばした。
ねえじいじ、あのね、それでね。飲み込む一拍も惜しんで話し続ける幼い私に、祖父が柔らかく笑う。
ようく喋るなあ。彼の手元には煙草盆があり、虫眼鏡と入れ歯安定剤とテレビのリモコンと肉桂の飴玉が適当に放り込んである。その脇で蜂蜜のチューブボトルがきらめく。内側についた蜂蜜がゆっくりと流れ落ちていく、その動きで光も揺らめいた。
「見てじいじ、ちらちらしてる」
「おお」
「ゆっくりだね」
さっきもこんなにねとねとしてたっけか、と気を取られた私はそのとき祖父が何と言っていたのか覚えていない。確かめる術がない今、甘い香りと金色ばかりが記憶に鮮やかである。
(完)
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