山宮 源一郎
『蜜蜂』『蜂蜜』は、文字に接するだけでも過去が懐かしく甦る。
山間の集落だったが、蜜蜂を飼っているのは、隣の(田圃を越えて、二百メートルほども離れているが)満君の家だけだった。
三つの巣箱には、数えきれない蜜蜂が、出たり入ったり忙しく動き回っている。じっと巣箱を見つめる私に、満君のお父さんが、後ろから声をかけてくれた。
「蜜蜂は可愛いだろう。働き者なんだぞー。来年、栗の花の頃に、また、あげるからな」
にっこりして、持ってきた一升瓶を抱えさせてくれた。小学三年生の私は、驚いてしまって、「ありがとう」も言えなかった。
躓いて、転んだりしたら大変だ。蜂蜜の入った一升瓶をしっかりと抱いて、細い畦道を家に急いだ。心臓は躍っていた。
「お母ちゃん、満君のお父さんにもらった!」
ハーハーと、息は途切れている。母への報告も興奮のあまり、巣箱の入口で混雑している蜜蜂のように、頭の中はぐちゃぐちゃしていた。
当時、蜂蜜は貴重な栄養剤だった。風邪を引いたときなど、母がどこかからわけてもらってきて、お湯に溶かして飲ませてくれた。
そんな大切なものを、一升瓶でもらってきたのだ。
一旦、母親に渡した一升瓶を再び膝に置いて、しげしげと眺めた。あんなに小さな蜜蜂がどうしてたくさんの蜂蜜を集められるのか、不思議でならない。一升瓶の底四分の一くらいは、白い粗目のようで、上の四分の三くらいは、黄金色だった。
満君のお父さんは、子供の私との約束を守ってくれた。翌年もらった蜂蜜は、舌先に栗の香がとろけるようだった。前の年の蜂蜜は、れんげ草の香りだったのだが。
あれから七十年近くも経っている。スーパーで買う蜂蜜に花の香はないが、『蜂蜜』に、満君のお父さんの笑顔が、くっきりと浮かぶ。
(完)
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