なおちゃん
蜂蜜の瓶は、いつも食卓の真ん中にあった。
少しべたついた蓋、プラスチックの容器。母に「ちゃんと閉めなさい」と言われた記憶がある。休日の朝は決まってホットケーキ。粉を混ぜる音、フライパンに落ちる生地の丸み、焼ける匂い。台所の空気が、少し甘くなる。
焼き上がったホットケーキに、バターをのせて、蜂蜜をたっぷり。とろり、とろり。黄金色の液体が、丸い生地の上をゆっくりと流れていく。その様子を見ているだけで、朝が特別なものに変わった。フォークで切ると、じんわりと染み込んだ甘さが広がる。口に運ぶと、バターの塩気と蜂蜜の香りが混ざって、世界がやさしくなる。
蜂蜜の香りは、どこか花のようで、ほんのり焦がしたような匂いも混じっていた。甘いだけではない、奥に微かな酸味と、草のような青さがある。口に含むと、まず舌の先に甘さが広がり、次に喉の奥にじんわりとした温かさが残る。その一口が、家族の時間を包み込んでいた。蜂蜜は、ただの調味料ではなく、記憶の味だった。
隣には、父のコーヒー。苦い香りが漂っていた。私はまだ飲めなかったけれど、あの苦さと蜂蜜の甘さが、ひとつの食卓に並んでいることが不思議だった。今思えば、それは家族の輪郭だったのかもしれない。甘さと苦さ、子どもと大人、休日の静けさ。
ある年の冬、友人が「地元の蜂蜜です」と言って瓶をくれた。手書きのラベル、少し歪んだ蓋。開けると、香りがやさしく広がった。その朝、トーストに塗って食べながら、遠く離れた町のことを思った。蜂蜜は、誰かの手のぬくもりを運んでくる。
今の私は、朝にヨーグルトを食べることが多い。プレーンの酸味に、蜂蜜をひとさじ垂らす。冷たい白に、黄金色がゆっくりと沈んでいく。スプーンで混ぜると、甘さが全体に広がり、口に運ぶと、昔の朝がよみがえる。ホットケーキではないけれど、蜂蜜があるだけで、記憶がそっと寄り添ってくる。
ときには、トーストにバターを塗って、蜂蜜をかけることもある。苦いコーヒーを飲みながら食べると、甘さと苦さが交差して、今の自分と昔の自分が並んで座っているような気がする。蜂蜜は、今の自分と昔の自分をそっとつなぎとめてくれる。
(完)
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