花山 ことば
子供の頃、緑に溢れた田舎の一軒家に家族5人で暮らしていた。
キッチンは少し奥まった構造で、テレビを観るリビングからは母の姿が見えなかった。私は空腹と寂しさから、よくキッチンの様子を覗きに行った。リビングとキッチンを隔てる壁からそっと顔を出す。赤いお鍋がぐつぐつと湯気を上げ、野菜が小さく刻まれていた。忙しそうな手元とは裏腹に、母の顔はいつものんびりとしていた。包丁のリズムとはまるで違う、ゆったりとした鼻歌がキッチンの中だけで小さく響いていた。壁や天井にまで母の優しさが染み込んだ暖かいキッチンは、まるで母だけの秘密基地のようだった。
時々、私は母の手伝いをした。お米を研いだり、お鍋の中に醤油や味醂を入れたり。私専用の包丁を買ってもらってからは野菜も切った。母が嬉しそうに褒めてくれるのが私の小さな誇りだった。
夜ご飯の後、食器を洗う母のエプロンの中に潜り込むのが私だけの特別な時間だった。同じ石鹸で体を洗い、同じご飯を食べているのに、母からは夜ご飯のおかずとは少し違う、美味しくて優しい匂いがした。「変な子ね」と笑いながら、エプロン越しに私の頭を撫でてくれた。悲しいわけでもないのに、奥歯のさらに奥がきゅっとなって涙が出そうだった。お腹から響いてくる母の声はいつもより低くて、時々、お腹がぐるぐる鳴って邪魔をした。
母には、私が知らない楽しみがあった。キッチンの高い戸棚の奥に、それが隠されていることを私は知っていた。夜になると、母はそっとその戸棚を開け、中から小さな瓶を取り出していた。「それなあに?」と聞いてみたことがあったけど、母は「お母さんの元気と幸せのもと」とだけ答えた。
ある時私は風邪をひいた。私が風邪をひくと母はとても悲しい顔をした。その夜、母は戸棚から秘密の瓶を取り出して、一匙掬って私の口に入れた。甘くて美味しいはちみつだった。いつもヨーグルトに入れるツヤツヤのはちみつとは違う、少し白くて特別なはちみつ。
母の幸せが詰まった秘密。それはマヌカハニーだった。
私は今、大人になり自分だけの秘密基地を手に入れた。そこには、母が教えてくれた幸せの味が、そっと息づいている。
(完)
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