嶋田 隆之
退職し、仕事を続けている妻と家事を交代した。慣れぬ水仕事に最近ではいつも、手がガサガサになっている。
「荒れだしたらすぐ塗らないと。どんどんひどくなるよ。」
そう言って妻が貸してくれたハンドクリームがあったのを思い出し、棚を探す。
「荒れたらすぐ塗らないと、か。」
何気ない独り言に昔を思い出す。あの頃は指ではなくて唇だった。ハンドクリームじゃなくて蜂蜜だったな、と。
小学生の頃、冬になると必ずと言っていいほど僕の唇は荒れた。乾燥しむず痒くなった唇を舌先で舐めて濡らし、指でこする。それを何度も繰り返すうちに荒れはひどくなり、唇はガサガサになる。それでも我慢できず、僕は舐めたりこすったりを繰り返す。やがて唇は全体に瘡蓋ができたような、ひどい荒れになってしまう。「口が倍の大きさに見えるで」と、友達にからかわれたこともあった。
そんな僕を見かねた母が塗ってくれたのが、蜂蜜だった。当時は医薬品としてのリップクリームなどはなかった。母は「荒れには蜂蜜が効く」と聞きつけ、僕の唇に食用の蜂蜜を塗るようになった。家にいる間はもちろん遊びに行く時も、僕は母に蜂蜜を塗られた。
早く良くなるようにと母はいつも、蜂蜜をたっぷりと塗った。けれど蜂蜜の甘い魅力には勝てず、母がいなくなるとすぐに僕は蜂蜜を舐め取ってしまっていた。舐め取っても唇には蜂蜜のべたべた感が残る。それが気になり、僕は唇を指やハンカチでこすり、乾けばまた舌で舐めた。結局、舐めたりこすったりは続き、僕の唇は冬の間じゅうずっとひどいガサガサのままだった。
でも、蜂蜜なんて塗られたら誰だった舐めるよな。見つけたハンドクリームを指にすりこむ。あのべたべたを我慢できるなら、辛くなる前に唇を舐めるのだって我慢できたよな。何もしなかった当時の自分を棚に上げ、笑う。あの時、母はどう思ってたのかねえ。ハンドクリームを塗った指をすり合わせながら思う。
母の事だからきっと、僕が蜂蜜を舐めてた事くらい分かってたんだろう。いつまでたっても唇は良くならなかったしな。それでも母は塗り続けてくれたんだ。「舐めたらあかん、治らんやろ」と叱られたことも一度もなかった。みんなお見通しで、でも母は「早く治るように」って塗り続けてくれてたんだ……。しっとりした指を見ながら昔を思い出し、母を想う。唇がこんなふうになってたら、母も喜んだだろうにな。唇を小さく噛む。蜂蜜の味はしなかった。
(完)
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