増田真奈美
その日、夫は飲みに行き、たまたま帰り道で占いの看板を見かけたそうだ。
「いっちょう占ってもらうか」
お酒の勢いもあったのだろう。
行列のできる有名な占い師ではなく、ひっそりとやっていたので入りやすかったのかもしれない。
「今の自分に満足していませんね」
濃紺の衣装を纏った中年の女性が水晶に手をかざしながら低く呟いた。
「あなたの能力が最大限発揮される場所が必ずあります」
占い師の言葉にすっかり感化された夫。
家に帰ってくるなり、
「やっぱり今の職場じゃないんだよ」
酔いも手伝い、夫は気が大きくなる。
「すばらしい俺の能力にどうして気がつかないかな」「この能力を活用しないのはもったいない」「転職しようかな」
とめどなく話す夫の軽い考えに、私はだんだんイライラしてくる。
「甘いわよ」
「何が?」
「そんな簡単じゃないわよ」
「自分がもっと輝ける仕事に就きたいって言ってるだけだよ」
「それが甘いのよ」
「甘くない」
「甘い」
「甘くない」
二人の言い合う声に、四歳の息子が目をこすりながら起きてきた。そしてキッチンからはちみつを持ってくると、「パパ、あーんして」息子はそう言ってはちみつを夫の口の中に垂らした。
「甘いでしょ?」
のぞき込む息子。
「…うん、甘い。…とっても甘いな」
昂ぶっていた感情が、はちみつの甘さに溶かされていくように夫の表情が柔らかくなり、つられて私も息子も笑顔になった。
「俺の考えが甘かったよ」
「私のほうこそ言い過ぎたわ」
当時はちみつが大好物だった息子。両親のただならぬ雰囲気を息子なりに知恵を絞って解決してくれたのだと思う。
二十六歳になった息子が帰省する度、相変わらずはちみつを美味しそうに食べている姿を見ると、当時を懐かしく思い出す。
(完)
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