比嘉小夜子
風邪をひいたら、はちみつパン。
我が家では、それが一つの約束だった。
仕事で忙しい母は、いつも、はちみつパンを食べていた。きつね色に焼けた食パンに、たっぷりとかけるのだ。とろり、とろりとした蜜を、こぼれないように掬いながら食べる母の手は美しかった。でも、私には、はちみつパンは禁止だった。なにしろ、あんなに甘いのだ。一度食べたら、何度も欲しがるに決まっている。だから私にとって、はちみつパンは憧れの味だったのだ。
覚えている限り、はじめて風邪をひいたのは、五歳のときだった。もちろん、赤ん坊の時は体調不良なんて沢山あっただろうけれど、記憶していないのだから仕方ない。
「あら、熱?」
と、母は仕事着で言った。
「どうしよう。仕事行かなきゃいけないのに……」
当惑した母の顔は、今でも覚えている。私は、母を困らせたくなくて、こう言った。
「きっと、はちみつパンを食べれば治るよ」
「なんですって?」
「ママの食べてる、はちみつパン。元気が出るって言ってたでしょ? だからきっと、食べたら風邪も治るよ」
母は困惑したようだった。でも、私も引くつもりは一切ない。なにしろ、子どもにとって、大人だけが食べられる味というのは、何よりも魅力的なのだから。
「今回だけよ」
そういって、母は、こんがりと焼けたパンを青い皿におく。そうして、とろり、とろりと、はちみつをかけていく。
「ママ、もっと」
私は、机にすがるように背伸びをしながら、母におねだりする。母は、「もうっ」といいながら、また一匙、はちみつを掬う。
とろり、とろり。忙しい毎日のなか、疲れを吹き飛ばすような、あの金色のはちみつ。
「さあ。食べていいわよ」
そう言って差し出された、黄金色のはちみつパン。一口食べると、その甘さに脳がしびれるほどだった。
――美味しい!
心からそう思って、二口目にかぶりつく。はちみつの中の、わずかな花の香りが、口の中いっぱいに広がった。
「ねえ、ママ。次に風邪ひいたときも、はちみつパンがいいな」
「はいはい。わかったから、食べ終わったらゆっくり寝るのよ?」
「はぁい」
そう言いながら、私は、はちみつパンを楽しんだ。大人の味。ママの味。そして……愛の味。はちみつって、愛だ。子どもながらに、そんな言葉が思い浮かんだ。
それから数十年が経ち、今では、私が母に、はちみつを与える立場だ。母の介護をしながら、毎日忙しく働いている。
でも、今でも、風邪をひいた時は、はちみつパンだ。昔の母と同じように、とろり、とろりと、はちみつをかける。そうして出来上がった黄金色の、はちみつパンは、どんなものより、私に力を与えてくれるのだ。
(完)
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