宮本紗有
その蜂蜜は母のスペイン旅行の数あるお土産の中のひとつだった。
自由奔放ですぐに一人旅に出てしまう母だが、それまでは一泊かせいぜい二泊で帰って来ることがほとんどだった。そのため、スペイン旅行による二週間もの母の不在には、残された家族全員、ほとほと疲れてしまった。
夏休み中と言えど、仕事や塾など各々の生活がある中で家事を回すことは想像以上に大変なことだった。最初の数日こそ皆んな張り切り、上手くいっていたが、そのうち食器洗いを後回しにするようになり、洗濯を押しつけ合い、ご飯は簡単に大量生産できるカレーを毎日食べるようになった。シンクに溜まった汚れた皿、家に帰れば洗濯物の山、埃の舞う部屋…食事の栄養バランスが偏り体調も悪くなった。みんな意地を張って、帰ってきてほしいとは言わなかったが、もう限界だった。家も、家族の心や体も荒んでいた。
母が帰ってきた晩、家族みんなで大量のお土産をテーブルに広げて、スペインで買ったという蜂蜜をトーストに垂らしてかじりついた。やわらかな甘みの中にひそむツンとした香りに、二週間胸に閉じ込め続けていた辛かった気持ちがじわじわとあふれ出し、気づけば言葉となって私の口からこぼれていた。母は静かに話を聴き、溜まっていた家事を片付けてくれた。そこには、自由を愛するだけではなく、母親として家族を案じ、想ってくれる母の姿があった。思えばこれまでの一人旅でも、私達がやり残した家事は帰ってから母が一人でやってくれていたのだ。
今でも蜂蜜を食べると思い出す、長く辛かった二週間と、自分の人生を生きながらも家族を大切にしてくれる母の姿。優しい甘さと個性的な香りを持つ蜂蜜はなんだか母と似ているような気がした。
母がいないことに寂しさを感じたら蜂蜜を食べる。母の人生を一番近くで感じられる、あつあつのトーストに染み込んだ蜂蜜は私の心を優しく包み込んでくれる。
また一人、母が旅に出た日曜日。蜂蜜トーストをかじりながらふと思う。
母のような、蜂蜜のような、人生を生きたいと。
(完)
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