楽笑
 子どもの頃に見たショッキングで印象深い出来事は、歳を追うにつれ鮮明になるから不思議だ。
   父が、蜂の巣を持って帰ってきた。
   「これは蜂の巣の蜜、巣蜜だ。うまいぞ」
   父は、舌なめずりしながら言った。見れば、黄金色の蜜の中にまだ生きている蜂の子が動いていた。わたしは、背筋が寒く感じた。虫が嫌いだったのである。
   「この蜜は最高。なめてみろ」
   父が、指につけておいしそうになめる。その顔が幸せに満ちていた。
   「おお、極楽、極楽」
   一人で至極の境地に立っていた。あまりにおいしそうなので、わたしも蜂の子がいないあたりに小指を差し入れてなめてみた。
   「うまい!」
   「だろう。こんなものは、そう食べられないぞ。蜜だけでなく巣も食べることができる。栄養満点だ」
   父は嬉しそうだった。
 50年以上も前のことだ。その父も13回忌終えたばかりだ。父を思い出す度、あの時の情景が浮かび上がってくる。蜂蜜の味とともに脳裏に焼き付いているようだ。
   妻は、蜂蜜が大好きだ。蜂蜜にはこだわりをもっていて、わざわざ電車に乗って百貨店まで買いに行く。蜂蜜を買う店を決めているのだ。近くのスーパーの蜂蜜は偽物だと言ってはばからない。その蜂蜜を、毎朝ヨーグルトにかけて食べている。
   「蜂蜜はね、美容にもいいし、健康にもいいのよ。アミノ酸やポリフェノールって言葉を聞いたことがあるでしょう。アンチエイジング効果もあるの」
   妻の講釈に従って、わたしもヨーグルトに蜂蜜を入れて食べるようになった。 今では、料理にも使っている。
   「ちょっと、この蜂蜜は高いのよ。わたしの許可なしに料理に使わないでよ」
   蜂蜜の番人のような妻だが、怒る気にはならない。妻はまだ、巣蜜の味を知らない。わたしは、妻に勝った気分でいるのだ。
   でも、いつかは妻にも巣蜜を味わってもらいたいと考えている。
(完)
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