道野 真菜
その喫茶は、時間の流れが止まったような、レンガ造りのビルに、こぢんまりと入っている。温かい光が流れる店内は、仕事で疲れた心身に、どこか、ただいま、と言いたくなるような郷愁が漂っている。
ずしりと厚い扉を開けると、
「こんにちは。」少し低くて柔らかい店主の声が、迎えてくれる。私は窓際の、幅のゆったりとした椅子に、腰を下ろす。
メニューは、いつも変わらない。
イングリッシュマフィンと、スコーンと、小鉢、それにたっぷりの紅茶がついた、”ドゥ“のセット。
そうして、この喫茶では、マフィンに挟む養蜂家から仕入れた蜂蜜が選べるのだ。アカシアと、オレンジと、れんげ。チェダーチーズを挟むこともできる。
私は、いつもアカシアを選ぶ。他は、もっと後の楽しみに、取っておくのだ。
注文すると、食器の触れる音、チンという音が響き、やがて、湯気の立つお皿の乗った木のお盆が、運ばれてくる。
こんがり焼き目のついた、平たいマフィン。私は目を輝かせて、それに手を伸ばす。
カシュ、と齧る。ふわりと花の香りが吹き抜ける。あぁ、これ、これ。私は目を閉じて味わう。初めて食べた時は、こんな蜂蜜があるのかと驚いた。
見たことのない、アカシア。けれど、瞼の裏では、風にそよぐ満開の花が、金の房を垂れている。
一口、また一口。それから、熱い紅茶。
窓の外では、木漏れ日がゆらゆら踊っている。味を終わらせたくて、私は確かめるように、小さく齧る。
空のカップを置く頃には、体も軽くなっているだろう。そうして、店主の声がまた、外へと送り出してくれるだろう。
私は、心地良い時間に、もう少し浸っていたいと、背もたれに身を預けた。
(完)
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