ミズスマシ
親の葬式の日以外は店を閉めたことがない、と言う七十歳間近の店長は経営者としてのストイックさとは裏腹に恵比寿様のような柔和な表情で笑う。三十年以上ずっと店を守ってきたということは、僕が生まれる前から店長はこの厨房に立っているのだ、と当時アルバイトとして働いていた私は驚いたものだ。
店の人気商品は昔から変わらず、山盛りの季節のフルーツやハンバーグ、フランクフルトなどと共に出てくる二枚重ねられた特大パンケーキで、浮ついたパンケーキブームを力でねじ伏せるような豪快な見た目だが、味は大人しく控えめだ。バターを薄く塗り蜂蜜をたっぷり回しかけてから頬張ると、口の中いっぱいにじゅわっと甘い香りが広がり何とも幸せな気持ちになるのだ。毎日のように食べに来る常連さん達の足を運ばせるのは何度でも食べたくなるその素朴な味と、つい頼りたくなる店長の温かい人柄の両方だと私は思っていた。
一人暮らしをしていた私にとって父親のような存在だった店長は度々、私に店を継いでもらいたいと言っていた。冗談交じりに言っていたが本気だったと思う。アルバイトではあったが小さい店ということもあり私は一通りの仕事はできるようになっていて、忙しい中でも楽しさと充実感を感じられるようになっていた。私が望みさえすれば店長は真剣に店を継がせようとしただろう。
しかし決心がつかないまま、働き出して四年半ほど経った頃どうしても他にやりたい事が出来た私は、よく考えた上でお店を辞めたいことを伝えた。アルバイトなのだから辞めることはそこまで深刻なことではないはずなのだが、よくしてくれた店長をどこか裏切るような気がして私は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。店長は一瞬黙った後、分かった、と言い、またウチでやりたくなったらいつでも戻ってこい、と笑った。
あの頃を思い出すとき浮かんでくるのはお世話になった店長の事と、まかないでよく食べていたパンケーキの味だ。今でもたまに無性に食べたくなって、当時のレシピを思い起こしながら生地を作りフライパンで焼き、家族と一緒に食べることがある。バターと蜂蜜をたっぷり纏ったパンケーキはいつでも、優しさと少しの寂しさで私の心を満たし、家族皆を笑顔にしてくれる。
(完)
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