三郎
「またアカシアの蜂蜜?」と首を傾げる妻にギクリとする。バレるわけないし、バレたところで遠い昔の話だと高を括っていたのだが――。
大学入試に落ちた春、失意の僕は気分転換も兼ねてリゾートホテルの敷地内にある池のボート乗り場でアルバイトをしていた。昼間は客も訪れ退屈しないが、日が陰る頃になると寒々とした風が池の面を渡ってきて「お前はダメだ、お前はダメだ」と囁いているように聞こえた。
ある日、売り場の小屋を閉めようとしているところへホテルのレストランでウェイトレスのバイトをしている女の子がやって来て、池を望むベンチに並んで座ると「私のこと好き?」と上目づかいで僕を見た。
「好きだよ」と答えてからはたと気がついた。その頃ひどい近眼であったにもかかわらず、格好をつけて眼鏡をかけていなかった僕は彼女が同級生の女の子とよく似ていたので確かめるために時々見つめることがあったのだ。けれど、彼女の勘違いに異議を申し立てることもなく僕はすぐ彼女の虜になった。
アカシアの林の向こうに隠れてゆく夕日、さざ波の立った池の水面……いつのまにか僕達はボート乗り場の小屋の中にいた。目を閉じた彼女の唇に僕は目を開けたまま唇を近づけてゆく。唇を離したとき、彼女が僕を吸い込むような深い目で咎めた。
「目を開けていたでしょう?」
その日を境に僕達はバイトが終わると、アカシアの林でデートを重ねるようになった。そして、その白い花が咲き乱れ、甘酸っぱい香りが漂う頃、つまらぬ恋歌を残して僕達の恋の季節は終わった。
初恋はいろはにほへと散りにけり
瞳に映るアカシアの花
――だからなのだ。僕がアカシアの蜂蜜にこだわるのは。ただ、五十年余も昔の淡い思い出とは言え無用な波風を立てたくなくて僕は妻にこう言い訳をする。
「俺らの青春時代は学生運動の最中でさ、西田佐知子の『アカシアの雨がやむとき』の大ファンなんだ。それにアカシアの蜂蜜はひと味違うぞ」
(完)
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