高田 智子
「ぜったいになめちゃダメよ」
小さな頃、熱を出してくちびるがカサカサになると、母さんは、はちみつをぬってくれた。ふとんのなかで寝込んでいるわたしのもとへ、母さんは、はちみつのビンを大事そうに抱えてやって来て、シュガースプーン一さじ分のはちみつをぬってくれた。スプーンの背のひんやりとした感触は、熱っぽいくちびるに心地よい。ぽってりとしたみつの重みをくちびるで受け止める。ぬり終えると、母さんは、ビンのふたをキュッと固く閉めた。
「ぜったいになめちゃダメよ」
なめちゃダメと言われれば言われるほど、なめたくなる。ああ、なめたい。この甘みを今すぐ口に含みたい。その誘惑から逃れるのは至難の業だ。
「おとなしく寝てるのよ」
母はそう言い置いて、仕事へ出かける。家にだれもいなくなったら行動開始だ。くちびるのはちみつを、舌を出してひとなめし、むっくり起きて台所へしのびこむ。ビンは高い戸棚の一番奥。食卓から椅子を運んでビンを取り出す。黄金色にかがやくとろとろの液。そのあとは、さながらクマのプーさんだ。台所の床にぺたんと座り込み、なかば熱にうかされて、一さじ、もう一さじ。はちみつのこっくり甘い誘惑にあらがうのは至難の業だ。風邪っぴきのひそやかな楽しみ。
(ミツバチさんが、すみれやバラの花から一生懸命集めてきたみつを、こんな無駄づかいしてもいいのかしら)
途中、かすかな罪悪感にもさいなまれた。それでも、スプーンを動かす手は止められない。
「いい子にしてた?」
仕事から帰った母が、わたしの額に手を当てる。わたしは、はちみつでくちびるをしっとりさせ、すやすや眠りについている。
大人になり母となった今、わたしはかつての母と同じことを娘にしている。イチゴやピーチのフレーバーのリップクリームをねだる娘のくちびるに、はちみつが一番と、やさしくぬってやる。
「ぜったいなめちゃダメよ」
(完)
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