《陜西省西安市》
むかし……
といっても学生の頃、夢にまで見た唐の都長安―――
その憧れの天地に、いま僕は、確かにその大地を踏みしめている。
はちぶんは興奮したままビデオを回す。
その日の西安は小雨が降っていた。
とにかく滞在中の一番の心配は、何はさておき天候の心配である。
せっかく日本くんだりからやって来て、明日、現地での養蜂視察において雨が降ってしまったでは何をしに来たか分からない。
天気ばかりは大麻(おはらいをする時の白いアレ)を振って、祈祷してでも晴らさなければなるまい。
空港を出たところで現地案内の中国人の方が待っていてくれた。
その顔……
どこかで見たことがある。
そうだ!
日本のジャーナリストでキャスターや評論家としても活躍している田原総一郎に似ているではないか!
なので彼のことを『総一郎さん』と呼ぶことにした。
総一郎さんと一緒に我々を待っていてくれたのは、現地天然蜂蜜工場の責任者であるリュウさんとその仲間たちで、唯一女性のワンさんはアラサー女性のやり手のようで、左斜め45度から見た顔つきは卓球の福原愛ちゃん似だった。
社長のタイプではなかったようだが、『寅さん』ではないが旅に恋の予感はつきものだ。
一行はリュウさんが運転する車に乗って、一路その日宿泊する西安市内のホテルへと向かう。
社長と総一郎さんは前回の視察でも一緒だったようで、車中では中国に進出している日本企業の話などしていたが、はちぶんはあまり興味がないので車窓を過ぎ去る異国の風景を心躍らせながら眺めていた。
1時間ほど車を走らせて西安市街に近づくに従って驚くのは、高層マンションの多さである。
しかもそのほとんどがまだ作りかけで、働く人も見当たらないから廃墟にも見えた。
それにも増して気になるのは空気の透明度で、小雨という天気のせいもあるのだろうが、わずか数百メートル先の建物すら霞んで見える。
これは現在日本でも盛んに取沙汰されているPM2・5による大気汚染の影響だそうで、黄砂も混じっているのだろうが、西安などはその最たる都市に数えられているのだ。
「こんな場所で採れる蜂蜜など本当に大丈夫なのか?」
はちぶんでなくても心配になるのは当然だ。
社長も口には出さないが同じことを考えているだろう……。
やがてガイドブックで見るような昔風の中国の大きな建造物が目に飛び込むようになってきた。
行きかう人々やすべて漢字で書かれた看板や立ち並ぶ店舗、そして城壁や鐘楼―――、思わず感嘆の声をあげずにいられない。
やがて総一郎さんは城壁の方を指さし、
「今晩泊まるホテルはあの中の西安で一番の中心地にあります」
と教えてくれた。
西安の繁華街は城壁で囲まれている。
ヨーロッパにもそういう都市があるが、この景観が街に美しさを添えているのだ。
(マジか~!)
まさに昇天しそうなはちぶんは、思わず悠久の歴史を感じさせる風景に生唾を飲み込んだ。
それにしても人の多いこと多いこと!
おまけに車の運転の荒いこと荒いこと!
車と車の間隔が50センチもないというのに強引に割り込んできたり、中にはキレイな女性ドライバーがこちらを睨んでクラクションを鳴らす者もある。
信号などあってないようなもので、赤信号なのに人は道路を横断するし、古びたバイクも荷台を引く自転車もごっちゃになって、比較的広い道路を皆が「我れ先に!」と先頭を争っている。
それでも運転手のリュウさんは手慣れたもので、その混雑の中をスイスイ走る。
気の小さいはちぶんなどとてもとてもこんなところで運転などできない。
街中を走っていると「○○酒店」とか「○○飯店」という文字をよく目にするが、これは中国では「ホテル」を意味するそうだ。
こうして今晩宿泊予定のビジネスホテル『艾斯汀(アイシーティン)酒店』の地下駐車場に到着した。
狭いロビーでチェックインをしている間に、ニコニコしながらリュウさんが僕に一本のタバコを勧めてきた。
名古屋でライターを奪われ、それまで一本も吸っていなかったはちぶんは
「気がきくなあ♪」
とありがたく頂戴したが、後で聞いた話では、それは中国人のタバコ吸いの社交辞令だそうで、断ると失礼に当たるのだそうだ。
お返しにはちぶんも日本のメビウスを一本さしあげると、リュウさんはとても喜んでいる様子だった。
「荷物を置いたら西安の蜂蜜専門店の視察に行きます。
4時30分にロビーに来てください」
総一郎さんが社長に言った。
はちぶんの黒いケータイの時間を見れば17時23分。
日本と中国との時差はちょうど1時間で、太陽は東から昇るので中国は日本より日没が遅い。
なんだか1時間得した気分ではあるが、部屋に入って集合時間まで10分もないとは、
(いくらなんでも無謀じゃろ~!もうちょっと休ませろ~!)
とは言えず、急いで荷物を置いてロビーに降りた。
それまでに何度かケータイの時間を現地時間に合わせようと試みたが、どうにも設定のし方が分からずに、結局中国にいる間はケータイが示す時間から1時間引くというやり方で現地時間を認識することにした。
なんとも不便だが、早めの行動を促すには都合がよい。