石川 則夫
平成に入るまで私の家は商人宿だった。毎年冬近くになると、業者が一升瓶に入れたはちみつを三本ほど持ってくる。
昭和三十年代、私が小学生のころ。家の廊下にはまだサッシなどなく、ほとんど外と同じくらい寒かった。はちみつの一升瓶を廊下に置いておくと白く結晶化した。
居間には大きな掘りごたつがあり熱源は練炭。こたつの隅には一升瓶に入ったはちみつ。
祖母は時々「蹴とばすな」と孫たちを威嚇。 当時、祖母はイチジクの甘露煮に凝っていた。イチジクをふっくら煮上げる事は至難の業と世間では言われていた。祖母もいろいろ試し何度も失敗を重ねた。
祖母が「失敗した」と思った甘露煮は私たち家族の口に入った。妙に硬かったり、甘さがイチジクの中まで入っていなかったりで、誰も「うまい」とは言わなかった。「まずい」
と言うと祖母の機嫌が悪くなるので、黙っているしかなかった。そうこうしているうちに祖母の腕前も徐々に上がってきた。煮あがったイチジクはふっくらと丸みを帯び、煮汁を充分吸い込んで見た目も立派だった。祖母はたいそう喜んだが、今度は我々の口に入ることはなかった。
祖母は自分の友達が来た時や、その頃の無尽講と称する集まりなどに出席する際に、甘露煮を持参した。
得意げに振る舞う祖母の顔を想像したり、もしかして「一個ぐらい持ち帰って来ないか」などと、淡い期待を寄せたりしながら、祖母の帰りを待ったものだった。
商人宿だったので、宿泊客のほとんどが顔なじみ。夜は掘りごたつに客が集まり、家族や客同士の交流がたびたび開かれた。そんな時、イチジクの甘露煮が登場する。客に「なかなかこんな甘露煮は食べたことがない」とか「きれいな色をどうやって出すんですか」などと言われると、祖母は本当に幸せそうな顔をしていた。食べてただ「おいしい」だけでなく、質問を受ける・答えることが祖母の甘露煮を成功させた証だったのだろう。
風邪をひいて熱が出て、学校を休んだ時などは、憧れの甘露煮を食することができた。
しかし熱があると、せっかくの甘露煮もあまり美味く感じない。「今は食べないから普通の日に食べたい」などと言っても、祖母は「風邪をひいたからあげるのであって、普通の日はダメ」と無下に言われた。
甘露煮は子供たちの下校の声が聞こえてくるまで食べなかった。私にも小学生なりの矜持があった。
(完)
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