どすこい!よーた
分厚い教科書とたくさんのノート。ランドセルはとても重く、肩に深く食い込む。思わず背中を丸めたくなり、足を止める。
「胸を張れ」
父の声が、朝の空気に混じってよみがえる。僕は息を整え、前を向く。甘く湿った風が首元にまとわりつき、汗を誘う。手の甲で額をぬぐい、僕は背筋を伸ばし、胸を張る。
父はハチミツ農家だ。毎朝、夜明け前に起きて、白い防護服に袖を通す。僕が家を出るとき、父はいつも軽くうなずくだけで、言葉はなかった。それでも、背中越しに見送られている気がしていた。今はもう、振り返って手を振ることもない。父も、僕を一人前の男のように扱っているのだと思う。
初めて遠心分離機で蜜を搾った日、父は言った。
「急ぐな。待てば、ちゃんと落ちてくる」
黄金色のハチミツが流れ出すのを、僕は息を止めて見ていた。今、その瓶は家の棚に並び、売り物としてラベルを貼られている。
信号が青に変わる。姿勢を意識して歩き出す。中学校の前を通ると、公民館が見える。四年生の夏休み、ここで父は「親子養蜂体験」の講師をしていた。参加した親子の前で、父は落ち着いた声で蜂の話をしていた。その姿を、僕は少し誇らしく思っていた。
父は僕に、家業を継げとは決して言わなかった。ただ、畑に連れて行き、蜂に触れさせ、蜜の匂いを覚えさせた。サッカーや水泳もやらせてくれたが、最後に戻る場所はいつも父のそばだった。それでも、僕はまだ、自分がハチミツ農家になるのかどうか分からずにいる。
学校に着くころには、汗が背中を伝っていた。運動場を見て、小学校のマラソン大会を思い出す。あの日、父は作業の手を止め、応援に来てくれた。
「前のやつ、抜かせ!」
父の声は真剣だった。僕は歯を食いしばり、最後まで走った。
帰ってから、家で父は申し訳なさそうに言った。
「ああいう言い方、よくなかったな」
教室に入り、重たいランドセルを下ろす。先日の参観日、父は廊下の端に立ち、静かに授業を見ていた。僕は一度だけ父を見て、後は前を向いた。
いまでも覚えている。初めて瓶詰めしたハチミツを「うまい」と言ったときの父の顔。防護服が少し大きくて、「そのうち似合うようになる」と笑った父の顔。
良い成績を取れと言われたことは一度もない。いつも言われるのは、
「胸を張れ」
これが僕と父との約束。
振り向き手を振るかわりに、胸を張ってしっかりと歩いていく。その姿を父に見せる。人生という道の、暑い日も寒い日も。
チャイムが鳴り、僕は胸を張った。
(完)
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