蒲原詩織
眠れない夜は、世界が音だけでできているように感じられる。時計の針が空気を刻み、遠くの車の音が、知らない誰かの生活を運んでくる。目を閉じても闇は訪れず、昼間には形を持たなかった思考だけが、輪郭を得て起き上がる。子どものころの私にとって、眠れない夜は、世界に置き去りにされる感覚を初めて知る時間だった。
理由はいつも曖昧だった。不安は名前を持たず、胸の奥で静かに膨らむ。私は時計を見るのを避けた。時刻を知れば、この夜が「失敗した夜」になる気がしたからだ。
そんなとき、母は気配だけで私を見つけた。襖がわずかに開き、「まだ起きてるの?」という声が落ちてくる。理由は聞かれなかった。その沈黙は、放置ではなく信頼に近かった。
夜の台所は、昼間とは別の場所になる。弱い火の上でミルクは急かされることなく温められ、そこに、はちみつが少しだけ加えられる。花の時間を閉じ込めたような甘い匂いが、部屋まで届き、夜の角を静かに丸くしていった。
母が差し出した白いマグカップの中で、ミルクはわずかに黄金色を帯びていた。はちみつはすでに姿を消していたが、消えたのではなく、全体に溶け込んでいた。目に見えないものが、確かに存在する。そのことを、私はその夜に知った。
「熱いから気をつけてね」
その一言とともに、マグカップは私の手の届くところに置かれた。母は長くは留まらず、夜に対する礼儀のような距離を保って部屋を出ていった。
一口飲むと、温かさが先に体を満たし、甘さは遅れてやって来る。それは励ますための甘さではなく、急がせないための甘さだった。はちみつは、眠れない理由を解決しようとはしない。ただ、そこに留まることを許す。
ホットミルクを飲み終えるころ、意識は少しずつ沈んでいく。眠りに落ちる瞬間の記憶はない。ただ、空になったマグカップの底に残るぬくもりと、台所から聞こえる水を止める音、椅子が静かに引かれる気配だけが、夜の終わりを知らせていた。世界はまだ動いていて、私はそこから外れてはいなかった。
大人になった今も、眠れない夜はある。私は同じようにミルクを温め、はちみつを一杯だけ落とす。その動作は、過去の再現ではない。かつて受け取ったやさしさを、自分の手でなぞる行為だ。
眠れない夜。
はちみつ入りのホットミルク。
それは眠りを約束するものではない。ただ、立ち止まっても壊れないこと、答えが出なくても朝は来ることを、静かに思い出させてくれる。その甘さは今も、私の中で、時間をかけて溶け続けている。
(完)
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