双瞳猫
深夜一時、喉の奥にへばりつくような違和感で目を覚ました。
隣で寝息を立てる妻を起こさぬよう、そっとベッドを抜け出す。リビングは静まり返り、冷蔵庫のモーター音だけが低く響いていた。還暦を過ぎても、風邪の引き始めの心細さは変わらないものだと苦笑する。
キッチンの戸棚から小ぶりの蜂蜜の瓶を取り出す。蛍光灯の下、とろりとした黄金色が鈍く光る。蓋を開けた瞬間、甘く濃厚な香りが鼻腔をくすぐり、記憶の奥底にある扉を音もなく開け放った。
あれは昭和四十年代、まだ小学生だった小樽の冬。木造の実家は、夜になると容赦なく冷え込んだ。湿った風が窓ガラスをガタガタと揺らし、屋根の雪が時折ドサリと落ちる音が響く。
私は高熱を出して寝込んでいた。氷枕のゴムの匂いと、居間から漂ってくる石炭ストーブ独特の焦げた匂い。重たい綿布団の圧迫感の中で、台所から聞こえる「トントン」という、母が大根を刻む音だけが鮮明だった。
しばらくして、母が小皿を持って枕元へやってくる。母の顔は心配そうに歪んでいた。
「これを飲めば、喉が楽になるよ」
差し出されたのは、賽の目に切った大根が浸かった黄金色の蜂蜜。風邪の時だけの特別な「薬」だった。
口に含むと、ピリッとした大根の辛味が腫れた喉を刺す。だが、すぐに濃厚な甘みが追いかけてきて、痛みを優しく包み込んでいく。
「苦くないかい?」
母の水仕事で冷え切った掌が、熱い額に心地よかった。あの夜の蜂蜜大根は、ただの糖分ではなく、母の祈りそのものだったのだ。
時が経ち、私も子の親になった。
子供が小さかった頃、夜中に熱を出すと、妻と共にオロオロと看病をしたものだ。小さな体が熱にうなされるのを見るのは、自分が病むより何倍も辛い。
ある夜、咳き込む息子のために蜂蜜を溶かしながら、ふと思った。あの時の母も、今の私と同じように「代わってやりたい」と願いながら台所に立っていたのだろうか。
幼い頃は「少し変わった味の甘い汁」だと思っていた母の知恵。それが、言葉にできない親の愛情の結晶だったと気づいたのは、自分がその立場になってからだった。
ポットのお湯が沸く音で我に返った。
マグカップに蜂蜜を入れ、お湯を注ぐ。湯気と共に立ち上る甘い香りを胸いっぱいに吸い込む。温かい液体が食道を通り、冷えた胃の腑に落ちていくと、強張っていた肩の力が抜けていくのがわかった。
六十年という歳月を経て、ようやく母の心情と重なることができた気がする。この甘さは、守られていた記憶の味であり、守ってきた日々の味でもあるのだ。
私は空になったカップを洗い、蜂蜜の瓶を棚に戻した。その琥珀色の中には、親から子へ受け継がれる家族の歴史と、変わらぬ愛情が詰まっている。それは、どんな特効薬よりも温かく、私を癒やしてくれるのだ。
(完)
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