潮海凛
事あるごとに思い出す『幻の雑蜜』会いたくてたまらないのにもう二度と会うことのできない逸品だ。遠い昔、すべて朦朧としている霧の中。ふとした気まぐれで車を駆って家族で出かけた休日の帰り道。当時はカーナビなんてない時代だ。すべては主人任せの気ままなドライブだった。主人が小さな看板を見つけた。半分消えかかっていたが古びた木の板に「はちみつ」と辛うじて判読できる程度の案内だった。そうか、はちみつか…ちょっと寄ってみるかということになって道の脇に車を止めた。
住居と店舗を兼ねた小さな仕舞屋風のお店で、縁側に幾つかのサンプルと思しき小瓶が置かれていた。中には色合いの異なる蜂蜜が入っていただろう。その瓶の傍に小柄な老人がまるで恵比寿様の王にニコニコと丸い背で控えていた。私たちが車から下りたのを目にとめると俄然元気が出たようで、大声で「蜂蜜だよ、買ってかれー」と声を張り上げた。店というにはあまりに地味でお粗末だった。年寄りの小遣い稼ぎというか暇つぶしにやっているようだった気がする。
我が家はよく夕食後にヨーグルトを食べていて、その習慣は今も続いている。そのヨーグルトに欠かせないのが蜂蜜なのだ。ヨーグルトの上にちょっとしたオートミールやコーンフレイクを添えて蜂蜜を垂らして食べるのが毎日の習慣になっている。というわけで、それならヨーグルトにかける用においしい蜂蜜でも買っていくことになるかとなったのだ。私は好奇心いっぱいに覗き込んで「どれがいいかしら」と声をかけた。老人は「どれでも良いっちゃ。みんな美味しいよ」と言いながら、つと色の濃いドロッとした瓶を私の前に置いた。「今日はこれがお薦めかな」と言った。「これは何の蜂蜜ですか」との私の問いには応えず「雑蜜やちゃ」と言った。「他のより成分が濃くて栄養満点。もう薬みたいなもんや。病院の先生も買いに来るくらいだちゃ。疲れもスッと取れて元気になるよ」と言った。確かに若干濁ったような濃い飴色の色合いに惹かれて買い求めた。幾らだったのか覚えていないが、そんなに高くなかった気がする。物凄い高価だったら、きっと印象に残り覚えていたと思う。まあ、欲しかったらまた買いにこればいいと適当に考えていた私が浅はかだった。地名も目印になるモノも何も記憶にない。すべて通りすがりの気まぐれな衝動買いだったのだ。帰宅してから試食してその旨さに絶句した。「美味しい!!」喉元からスッと溶けてほんのりと余韻も感じさせつつ「私は雑蜜よ」と静かに凛と主張しているのが感じられた。毎日飽きもせずヨーグルトにかけたり珈琲に入れたり、疲労が酷いときはただスプーンですくって舐めた。で、思ったより早くなくなった雑蜜を買い求めたいと東奔西走したが分からない。悶々と今日に至っている。食べられないと一層欲しくなるのが人間の哀しい性だ。雑蜜と聞けば買いに行くがあの蜜ではない。食べたいという欲が実際よりより美化している気もしないではないが、記憶の味に未だ出会えず悪戯に時は過ぎた。きっとあの老人はもういないかもしれない.ああこんなことになるのなら、きちんと住所をメモっておくべきだった。まさに後悔先に立たず。苦悩の日日である。
(完)
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