八巻孝之
宮城の山里、伊具郡丸森町荒野地区で母は生まれ育った。春の霞に包まれた花々、夏の光を浴びた蜜蜂たち、秋の静寂に滴る露──そのすべてが、母の暮らす村には溢れていた。そこには蜂蜜という名の小さな黄金の宝があった。幼い私は母の台所で、甘く濃密な香りに誘われ、初めて手にした瓶の重みに心を震わせた。母は柔らかく微笑みながら言った。「これが、わだすらの宝だっちゃ」。その声は、蜂蜜の甘さ以上に、私の胸を温めた。
母の手は日々の営みの中で蜂蜜を活かしていた。朝のトーストに薄く伸ばせば、柔らかな光のように香りが部屋に満ち、紅茶に一さじ加えれば、冷えた指先まで温もりが浸透する。冬の夜、母が作る蜂蜜入りの生姜湯をすすると、身体だけでなく心までもが溶けるようだった。時には母と山に出かけ、ミツバチたちが花の蜜を集める羽音に耳を澄ませた。小さな命の一瞬一瞬が、愛おしく尊く感じられた。
今年、母は静かにこの世を去った。遠くオランダに暮らす私には、帰郷できぬ日々が続いたが、お別れの式では、棺の母の唇にあの思い出の蜂蜜をそっとぬった。甘い香りがわずかに漂い、幼い私を抱きしめてくれた母の笑顔が、まるで時間を超えて目の前に現れるようだった。
蜂蜜は母の記憶そのものだ。甘みと香りの奥に、抗菌作用や栄養の豊かさ、自然の営みが息づいていることも、母から学んだ。小さなミツバチの働きが、人間の生活にどれほどの恩恵をもたらすかを知るのも、母と過ごした時間の贈り物だ。今、私はオランダに持ってきた瓶の蓋を開けるたび、母の手のぬくもりと笑顔を感じる。蜂蜜はただの食品ではなく、愛と記憶を閉じ込めた小さな架け橋であり、心を揺さぶる光のように、人生に甘く温かな余韻を残す。蜜の記憶は、永遠に消えることのない母の声なのだ。

(完)
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