いのせゆい
庭に生えた2本のさくらんぼの木の周りを、ぶんぶんと元気よくハチが飛ぶ。とにかく幼心にハチが怖かった。もしも刺されてしまったら、想像もつかないほど、恐ろしい事が待ち構えていそうで、怯えていた。さくらんぼの花が咲く頃、庭に出ることが憂鬱だった。
いつもわたしの我儘を聞いてくれる祖父に、ハチが怖いからなんとかして欲しい、頼んだ。しかしさくらんぼを食べるためだから、我慢して欲しいと言われた。頼みを断られることは稀だったし、我が家のさくらんぼは小さな自慢でもあった。だからこれ以上なにも言うことができなかった。こちらから攻撃しなければ、きっと大丈夫だから、というのが祖父の主張だった。
しかし友達を家に呼んだ時、ハチが怖くて家の中に入れないと言われた。
わたしも怖いけれど、刺されたことがないよ、と伝えたがついにその子は諦めて、近くの公園で遊ぶことになった。どうしてわたしの家だけ、恐ろしい生き物が住み着いているのだろうと、恥ずかしかった。
祖父が傘寿を迎えた頃、もう育てられそうにないからとさくらんぼの木を2本ともばっさり切り倒した。教えを忠実に守ったわたしは、幸運なことに、今に至るまで一度もハチに刺されることはなかった。
それ以降の我が家は、さくらんぼの花は咲かず、ハチも訪れない一般的な家になった。
数年後旅行先で出向いた道の駅で、はちみつがずらりと並んでいた。
そしてその種類の豊富さに驚いた。
アカシア、りんご、みかん、栗、さくらんぼのはちみつ。おなじはちみつでも色も香もまるきり違うのだ。
もし自分がハチとして生まれたなら、どんな蜜を集めたいだろう?なんて想像したら、内側からむくむくとエネルギーと好奇心が湧いてきて、気づけばいろんな種類を買っていた。
きらきらと溶けた黄金のようなはちみつは、あの恐ろしい生き物が作り出したものとは思えないほど美しかった。ティースプーンいっぱいに掬って、ハチの一生の重みを感じながら、いただきます、といって口に入れる。
そういえば祖父が言っていた。
ハチがうちのさくらんぼの木を選んでくれて嬉しいと。
今になって、少し気持ちがわかる気がした。
(完)
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